2時までに7万
あるさわやかな秋晴れの日のことでございます。
僕は駅前の植え込みの縁に腰掛けてぼーっとしておりました。
僕の周りにも、そういう人がたくさんいます。
風ひとつない穏やかな昼下がりです。
暖かな日差しが誰にも平等に降り注ぎます。
二十歳くらいの女性が僕のそばに座りました。
携帯電話を取り出して、誰かと話し始めました。
別に聞く気はありませんでした。
でも聞こえてしまうものはしょうがない。
携帯電話をかける人の多くは、ひどく無防備です。
最初は何の話をしているのかよくわかりませんでした。
口調はごく普通です。
怒るわけでもなく笑うわけでもなく
大きな声を出すでもなく突然小声になるわけでもなく。
「『あんた妊娠してるでしょう』って親に言われたの」
最初に興味を引かれたのはそんな言葉でした。
「つわりとかひどいからもう堕ろすの」
話し方に深刻な響きはいっさいありません。
だから僕には、ひとつひとつの言葉の意味は分かるのですが
それが全体として何を言わんとしているのか、
今ひとつぴんとこなかったのです。
あとになって思い返してみて
何となくわかった、という感じです。
「昨日も電話したんだけど通じなかったの」
言い方によっては相手を非難しているように聞こえる言葉ですが
そんな感情はいっさい込められていません。
ただ客観的に事実を述べています。
区役所の窓口の人ぐらいのテンションです。
「ほんとにきついんだ。病院にも行ってるんだ。
もうきついから堕ろすの」
風邪を引いたから医者に行って薬をもらってくる、
とでも言っているみたいです。
猫が餌を食べないだけでもっとうろたえる人は
いくらでもいるでしょう。
「13万くらいかかるから、半分出して」
ここから本題に入ったということは
だいぶ後になって気がつきました。
「７万銀行に振り込んで。
3万か4万くらいなら、親から振り込まれるから出せるから。
あとの3万は友達から借りるから」
彼女が誰と話しているのか、
ということを聞きながらずっと考えていましたが、
僕にはよくわかりませんでした。
『親』でないことは明らかです。
『友達』でもないような気がします。
友達に対して「友達から借りるから」
というのはちょっと変な感じがするからです。
「他の友達から借りるから」ならわかりますが。
「2時までに銀行に7万振り込んで」
普通こういうことは『男』に対して言うでしょう。
僕もその線を中心に考えていました。
しかし、よく聞いているとそうとも言い切れないところもあるのです。
「あさって親が来るの。
だから明日手術しなくちゃならないの。
明日土曜日だから、今日中に振り込んで。
今日の2時頃までに7万振り込んで」
彼女は「ねえ」とか「お願い」とか言う哀願調の言葉を
決してはさみません。
自分に関する事実を述べ、相手への要請を事務的に伝えている。
そういう口振りです。
相手が『男』だとすると、ちょっとわけありな関係のようです。
「2時までに7万振り込んで」
彼女は繰り返します。
僕は新聞を読む振りをしながら
すっかり聞き耳モードです。
そばに座っている50代くらいの女性も
明らかに聞き入っていることがわかります。
「振り込んで。7万。2時までに」
茶髪で丸顔の彼女はまた言います。
どの単語にもまったくアクセントを置いていません。
「買ってきて。ネギ。スーパーで」
という内容ならばそれでも何の違和感もないのですが。
もしかすると自分のことではないのではないか
と何度も思いました。
「2時頃までに振り込んで。7万」
言うべきことはすべて言ってしまったのでしょう。
あとは同じことの繰り返しです。
数えたわけではありませんが、8回か9回、彼女は
2時までに7万振り込むように言いました。
繰り返し言うという事実だけが彼女の心情を物語っていると
解釈することもできます。
いたたまれなくなったのか、一緒に聞いていたご婦人は
どこかへ行ってしまいました。
あるいはいい茶飲み話の種ができた、と思っているかも知れません。
それにしてもどうして「振り込んで」なのでしょう。
直接手渡せばいいものを。
相手が『男』だとすれば、
もう顔も見たくないということなのでしょうか。
それともずっと離れたところにいるのか。
やがて彼女は「うん」と言って電話を切ると、
立ち上がって大儀そうに歩いていきました。
その姿は、(ああ、確かに)と思わせるものでした。
口座番号は伝えませんでした。
そのくらいのことは知っている相手のようです。
ともあれ最終的に彼女の要求は受け入れられたようです。
長々とお話ししてきましたが、
もしかするとこれは別に
あえてお話しするほど
大した出来事ではないのかも知れません。
少なくとも彼女の、人に聞かれることをまったく気にしない
話しぶりからはそう思えます。
それとも言葉のニュアンスを読みとる感受性が
僕には足りないのでしょうか。
それとも僕が知らないだけで、
こういうことは日常的にどこにでも起こっている
ごく当たり前のことなのでしょうか。
考えれば考えるほど
自分のものの見方に自信がなくなっていきます。
幸福とか不幸とか、そんな基準をいろんなことに持ち込むのは
話をややこしくするだけで
何の解決にもならないのかも知れません。
世の中は僕が思っているよりもずっと簡単な仕組みで
できているのかも知れません。
2時までに7万振り込めばすべてうまくいくというような。
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